ライバル出現フラグの立て方

ライバルのいる人生といない人生なら、ライバルのいる人生の方が面白そうだと思う。
勝負の結果で通じ合い高め合う相手というイメージがライバルにはある。
ライバル発生条件は「真摯に取り組み続けて、結果を出し続けること」だと思う。確信は持ててないけどそんな気がする。
今の俺にライバルがいないのは他の追随を許さない圧倒的存在だからではない。何の挑戦も行動もしていないからだ。取り組み方がどうのこうの以前の問題である。俺は生涯誰かからライバル視されることはあるのだろうか。これに関しては俺の悩むことではないか。笑
生きねば。
スピリッツ

例え話は最終的にエンタメとなるのでは

相手に話を伝える時に使う「例え話」、その成れの果ては面白いかどうかに行き着くと思う。情報の伝達は事実が全てだと、そう考える。
理解や共感を求めて例え話を混ぜるとたちまち事実が霞んでいく。例え話を引き合いに出して説明するということは、そのものを100%忠実に表現しているわけではない。第三者がその例え話を聞くことによって「わかった!」と思ったなら、それはわかったのではなく「(実際は誤解しているのだが)わかった!」ということのように思われる。
例え話をしない人は相手を信頼しているか、もしくは諦観という姿勢をとっているのかもしれない。
受け手側に対して理解しようという努力を強いる気がする。
分からなかったらそれまで仕方ないか、という話か?
例え話は同じレベルに合う人間同士なら余分なもののように思える。
もしそうだとしたら例え話の成れの果ては面白くて笑えるかどうかのエンタメになるんじゃないか?と、そんなことを考えている。

※今回のブログ記事だけは「例え話ゼロ」に仕上げたいので、再び加筆修正します。
スピリッツ
(加筆修正 平成29年12月10日)

ところでこれが俺の夢です2

flow-of-spirits.hatenablog.jp
こんばんは。昨夜の続きを話します。「接続詞を使わない人になりたい」という話です。
接続詞は、自分の意思や思考の過程を他人に伝えやすくするために使うものだと思っています。
「分かりやすくするための道具」と言いましょうか、「補助的なもの」と言いましょうか、そんな風に捉えてます。
極端なことを言えば、接続詞なしでも思いや感情を相手に伝えられるんじゃないかと思います。
複雑なことを伝えられなくなって不便になりそうだし、それをやってのけるのは難しいと思う。展開的話もできなくなると思う。
接続詞なしでも思いを伝えるには、素直で順当な道理に沿った思考が必要になると思う。
※現状「スピリッツの言葉が聞きたい」とは誰からも求められていないから、接続詞を使う使わない以前に会話が皆無なのだが。笑

こういうことが夢というか理想である。
いつからか俺はコミュニケーションの窓を閉め切ってしまったのは、
「きみは何を言ってるの?」と理解されなかったり、同級生から少し距離をとられることもあったからか。
「風呂、飯、寝る」の三語を経て、いつの日かしゃべることをやめてしまう気がしないでもない。
理解者の登場を信じてしゃべり続けるという過酷な道もありそうだが、どうなのだろうか。

余談ですが、ツイートしたことは心から思ったことなのだが、
「私の夢は(中略)。そして~。」と言う風に、
「私の」「そして」をそのツイートで使うことが面白いと誤解している自分が恥ずかしく、また後悔もしております。
素直に「一人称を使わない人間になること、接続詞を使わない人間になることが夢です。」でよかったものを。
スピリッツ